――カランカンラン
彼女がシーサイドカフェ・YuKuRuの扉をくぐったのは、春の日が落ちて、少し肌寒さを感じる夕暮れ時だった。
「いらっしゃいま……せ」
言ってから、出迎えた店員の女の子は一瞬、その女性客に見とれてしまった。
白銀のような不思議な髪色が、オレンジ色の夕日に照らされ美しく輝いている。そして彼女のゆったりと揺蕩うような落ち着いた空気感は、それなりに多くの人々を見てきた彼女にとっても初めてのものだった。
「待ち合わせで、あとからひとり来ます」
多分……と、彼女は呟くように付け足した。
「かしこまりました。空いているお席、どうぞ」
待ち人が現れれば、すぐにわかるようにと窓際の席を勧めた店員に、彼女は軽く会釈をして席に付いた。と、その時だった。
「おー、双海さん! いらっしゃい!」
「久しぶりですね、稲穂さん」
奥でグラスを磨いていたはずの店のマスターが、喜色満面で現れた。
店員の女の子にとって、こんなマスターの笑顔を見るのもまた初めてのことだった。
「あ、日紫喜さん、ここは俺がやっとくからいいよ。彼女、俺の高校の時のクラスメイトなんだ」
「双海詩音です。はじめまして」
「あ……日紫喜瑞羽です。はじめまして」
――なんとなく、今日は幸運だった気がする。
そんなことを考えながら、瑞羽は自分の仕事に戻るのだった。
「ふふっ。稲穂さんがこうして人を雇ってお仕事してるなんて、なんだか不思議ですね」
「そりゃ、俺が一番そう思ってるよ。まさかこんなことになるなんてなー」
今は休憩中だからと言って詩音の正面の席に腰を下ろした信は、苦笑いを浮かべつつぼやいた。彼は高校を卒業後、世界のあちこちを巡っていたのだが、結局は姉の勧めでこの店のマスターに落ち着いたのだった。
「見た目も随分変わりましたよね」
「そうかー? 俺はその時々の時代に合わせてるだけなんだけどな。大体、それ言ったら双海さんだって……それになんていうかさ、高校の時より俺たち自然に話せるようになった気がしない?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
確かにそうかもしれない、という言葉を詩音は珈琲の一口と共に飲み込んだ。
「……ブレンド、美味しいです。味の輪郭が、以前よりはっきりした感じがします……腕を上げましたね。なんて、偉そうですが」
「おっ、嬉しいねぇ。良かったら紅茶も飲んでってくれよ。こっちは双海さんには敵わないと思うけど」
「うんうん、詩音ちゃんは紅茶博士だからね~」
ふたりの会話に急に入って来た女性がひとり。そんな彼女を出迎えるように、詩音はにっこりと微笑んだ。
「今坂さん、お久しぶりです」
「ええー、そうじゃないでしょ。詩音ちゃんと言えばほら、アレ」
「……ごきげんよう、ですか?」
「そうそう、それそれ!」
「なんだ、双海さんが待ってたのは唯笑ちゃんだったのか」
今坂唯笑もまた、ふたりの高校時代のクラスメイトだった。今は近くの病院で看護師として働いている。
「しっかし、嬉しいねぇ。こうしてふたりが揃ってるのを見ると、なんだか昔に戻ったみたいでさ」
「うわー、信くんそれ完全にオジサンのセリフだよ?」
「ぐっ……そ、それじゃ、俺は仕事に戻るよ。ごゆっくり」
そう言って信は詩音の相手を唯笑に譲り、少し客の増えてきた店内をさばくために戻っていった。
「詩音ちゃんゴメンね、ちょっと遅れちゃって」
「お仕事、相変わらず忙しいんですか?」
「それもあるんだけど……さっき来る途中で、すっごく可愛いねこぴょん見つけちゃって! 真っ白でモフモフで、誰かの飼い猫だったのかも~。ほらほら、見てみて!」
「……ええ、本当に可愛い」
唯笑のスマホの画面は、白い猫の写真で埋め尽くされていた。ただ、その猫は確かに可愛い……のだが、詩音の言葉はそれ以上に嬉しそうな笑顔を見せる親友に向けてのものだとは、彼女は気付いてはいないようだった。
「ふふっ。今坂さん、相変わらずですね」
「あははっ、よく言われるよ。この前も、かおるちゃんと小夜美さんに会ってねー」
「懐かしいですね……おふたり、お元気でした?」
「元気も元気、なんならパワーアップしてる感じだったね。そだ、今度一緒に遊ぼうよ。みなもちゃんも呼んでさ」
「ええ。私、この前の同窓会も行けませんでしたから」
久しぶりに澄空学園の卒業生で集まろうということで招待状は届いていたものの、あいにく詩音は仕事の都合がつかず欠席してしていたのだった。
「そっかー、ちょことかで連絡はとってたけど、ホント実際に会うのは久しぶりだもんね。ロンドン行って二年ぶりぐらいだっけ?」
「そうですね。留学してそのまま、向こうの図書館で司書として働いてましたから」
「すごいよねー。本好きも、そこまでいったらホンモノだよ」
「ふふふっ。一応、褒め言葉だと思っておきますね」
「えー、超褒めてるって。そうだ、こっち来て、他の誰かに会った? 信君以外で」
「稲穂さん以外、ですと……」
興味津々、といった双眸が見つめている。おそらく、唯笑は“彼”のことを聞きたいのだろう。
しかし、彼女が猫と戯れていて遅刻したことを思い出した詩音は、あえて別の人間の名前を出した……という理由を自分のなかではつけていたが、実際には単純に恥ずかしかったということの方が大きいのだが。
「ええと……浜咲の寿々奈さん、覚えてます?」
「あ! あの水泳部だった、可愛いっていうより綺麗目でちょっとキリッとして近寄りがたい感じの」
「……なるほど、そういう印象だったと伝えておきますね。わたし、今は彼女の家にホームステイしてるんです」
「ええっ? そうなの!?」
「ちょうど私の両親が入れ違いでフィンランドの方に旅行に行ってしまっていて、ひとりでいても寂しいので。後輩の舞方さんも来ているので、賑やかですよ」
「えー! ずるい! 私も行く!っていうか、詩音ちゃん今度ウチにも来てよ~」
「今坂さんはお仕事が大変そうなので、邪魔しないようにと思ったのですが……」
「そんなの関係ないから! でしょ?」
「はい……では、後で予定送りますね」
これも昔から変わらず、やや強引な唯笑の誘いを断ることなど出来なかった。彼女はいつもこうして明るく、そして時には周囲を振り回しつつも皆を良い方向へと導いてくれる。
もちろん、そんな彼女にも思い悩むこともあった。“彼”に関しては、その最たるものだ。だが、それを乗り越え、再び関係性を構築したからこそ、今の彼女たちの笑顔があるのだった。
「わ、もうこんな時間……!」
二杯目のミルクティーを飲み終えた唯笑が、時計を見て驚いたような声を出した。
いつの間にか、合流してから三時間ほどが過ぎていた。
「なんか楽しい時間ってあっという間だよねー。年取ると、実感するよ」
「まだ私たち、26ですよ……? そんな、おばあちゃんみたいな」
「いやいや、そんなこと言ってると30とか40とかあっという間だって~」
「う……でも、実際そうなのかも……あの頃は一年なんて、ずっと続くかのように思えていたのに……」
「だねー。それじゃ、明日早いからそろそろ帰るよ。詩音ちゃんは?」
「私は、もう少しゆっくりしていきます」
「おっけー、それじゃまたちょこするね」
それだけで、唯笑も察してくれたようだった。さすがに、彼女も大人になったということなのだろう。と、思いきや……。
「詩音ちゃん、ぜーったい今度ウチ来てよ? その時、色々また詳しいこと聞いちゃうからね~!」
最後にそれだけ言い残して、唯笑は大きく手を振りながら去って行った。
「もう……仕方ないですね」
苦笑しつつ、詩音は鞄から薄紫色のカバーのかかった文庫本を取り出すと、ゆったりと読書にふけりはじめるのだった。
そしてさらに一時間ほどが過ぎた頃、信が申し訳なさそうな顔をしてやってきた。
「あー、そろそろ今日は店じまいなんだが」
「ごめんなさい、気付かなくて」
「ま、もう客も双海さんだけだし、構わないんだけどな」
「そういうわけにはいきません。あ、ちょっとちょこだけするので待ってもらって良いですか?」
「もちろん。というか、あいつは――」
言いかけて、信は苦笑だけを漏らした。
「いいや、なんでもない。伝票、ここ置いとくよ」
YuKuRuを後にした詩音は、スマホでこの辺りの終電の時間を確かめた。
(まだ、もうしばらく大丈夫……ですね)
乗客の少ない列車に揺られ、彼女が降り立ったのは澄空駅だった。
十年前、彼女は唯笑たちと共に、この近くにある澄空学園に通っていた。
(そう、もう十年……)
商店街の店などはいくつか入れ替わっているようだったが、街並みそのものはあの頃と大きな変化はない。
直近の二年を海外で過ごしていたこともあり、詩音はまるで時を越えたような感覚に陥りながら、静かな夜道を歩いていた。
(随分、長い時が経ったような……そうでもないような……)
(色々なことが変わったような……そうでもないような……)
今日会ったり話題に出た友人たちの顔を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれる。
(私は、帰ってきたんですね……)
そして、その実感が、より確かなものとなる瞬間が訪れた。
「詩音」
その声に、足を止める。待ち焦がれた、彼の声に。
すぐに振り向くことは、出来なかった。
どんな顔を見せれば良いのか、ここにきて急にわからなくなってしまったのだ。
以前、自分はどんな笑顔を見せていたのだろう。
もしかしたら、仕事に疲れたこの二年で変わってしまったのではないか?
それは、彼を失望させてしまうのではないか……?
そんなことが頭のなかをぐるぐると巡り、立ち尽くしてしまう。
けれど――。
「おかえり」
その一言と共に、背後からそっと抱きしめられた。
その一瞬で、もう何も考えられなくなってしまった。
「あ、あの……ごきげんよう」
「あははっ。ごきげんよう、久しぶりだな」
思い切って振り返ると、おどけたように笑う彼――三上智也は、何も変わっていなかった。
正確には、彼女の思ってたとおりに変わっていただけだった。
「参ったよ、待ち合わせがあるって言ってるのに仕事積まれてさ」
「仕方ないですよ。むしろ、お仕事で信頼されている、ということでは?」
「いーや、上手いこと使われてるってだけだな。ったく、あの馬鹿上司。それより、すぐ見つけられて良かったよ」
「最近はスマホのおかげで、すれ違うことの方が難しいですから」
安心すると、互いに言葉が溢れ出す。
他愛もない日常の話、久しぶりの旧友の話に、また時間を忘れそうになってしまう。
「そういや、信の奴どうだった? 少しは店長っぽくなってたか?」
「ええ。しっかり店長さんしてました」
「ホントかよ……どうせバイトに任せて自分は楽することばっか考えてんだろ」
「あ、でも店長じゃなくてマスターって呼ばないと怒られますよ。今度、一緒に行きましょうか」
「あいつ、俺のコーヒーにだけ変なモノ入れようとするからな……」
「ふふっ。昔は智也さんの方が、そういう食べ物得意でしたよね」
「違う、それは記憶の改ざんだ! アレは小夜美さんが……って、そういやあの人も最近見てないな。どうしてるんだか」
「あ、さっき今坂さんが一緒に遊んだって話を」
「そういえば待ってくれてる間、唯笑といたんだよな――」
ふたり並んで、あの日と同じ道を歩く。
離れていた時間が長くとも、それを感じさせない距離感が心地よい。
帰国子女である詩音にとって、かつてはこの日本という国はむしろ“外国”であった。
しかし、彼と、彼の友人たちのおかげで今は、胸を張って自分の母国だと言える。
それは、今の彼女にとっての誇りであり、喜びでもあった。
「……それにしても、智也さんは優しすぎです」
「え? なんで? 何が?」
「今もこうやって、無理に私の予定に合わせてくれて」
「いやいや、むしろ、俺なんていつも自分のことだけで精一杯で申し訳ないぐらいなんだが」
「ロンドンで図書館に就職したいと言った時も、私の気持ちを優先してくれたじゃないですか。普通、無理にでも帰って来いとか言うところですよ?」
「そうか? 大体、やりたいことある奴は、それやった方がいいのは当たり前だろ。逆に、俺はそういうの特になかったからさ」
「もう……そうやって、あなたはいつも私を優先してばかりで……」
詩音は小さな嘆息を漏らした。
「え? 何? 俺、怒られてるの?」
「違います」
「良かった……むしろ詩音の方こそ、もっとわがまま言っていいんだぞ」
「そうですか……では、お言葉に甘えて」
しかし、自分が言い出したにも関わらず、智也は動揺を見せた。
「え……ちょ、ちょっと待った。金ならあんまりないぞ。今、ちょっと貯金してて……」
「なんで私が智也さんにお金を無心しなくちゃならないんですか……」
「だよな……あー、びっくりした」」
「そうではなくて……あの……」
「……?」
「もう……智也さん、そういうところはずるい」
しかし、次の機会がいつになるかもわからない。
唯笑にも、きちんと報告がしたかった。
だから、彼女は一度大きく深呼吸をしてから、彼に告げた。
「実はロンドンの図書館で、めぼしい本はもう読み終えてしまって……そろそろちゃんと帰って来てもいいですか?」
一瞬、彼は驚いたような顔を見せ沈黙した。
その僅かな時に、詩音は緊張する。
もし、万が一、拒絶されるようなことがあれば……。
しかし――。
「ちょっと待った。実は、俺もそろそろ限界だったんだ」
「え……?」
意外な言葉に、彼の顔を見つめるしかない。
「あの信にまで子供が出来て、自慢してくるしな……だから、その……次の休みにでも詩音をロンドンまでさらいに行こうかと思ってたんだ。ほら、さっき貯金してるって言ったろ?」
「もう……! そういうことは、先に言ってください!」
身体の力が一気に抜けていくのがわかったが、詩音はもう自分が泣いているのか笑っているのかもわからなかった。
その顔をごまかすために出来るのは……彼の胸に飛び込むことだけだった。
「……馬鹿」
「悪い悪い。でも、先に言ったらサプライズにならないだろ?」
「そこは無理にサプライズじゃなくていいんですよ……もう」
「それじゃ改めて……おかえり、詩音。受け取ってもらえると嬉しい」
そう言って智也が懐から取りだしたのは、天鵞絨作りのリングケースだった。
微かに震える手で詩音がそれを開くと、彼女の髪の色とよく似た、美しい銀色の指輪が現れた。
「いいんですか……私で?」
「もちろん。他に誰がいるんだよ」
「嬉しいです……」
「俺だって」
「ありがとう……」
「だから、お礼を言うのは俺の方だって」
互いに感謝と愛情を囁き合い、確かめ合う。
わかっていても、言葉もまた必要なことをよく知っているふたりであった。
「もう少しだけ、歩きましょうか」
「ああ、そうだな」
指輪をはめた詩音の手を、そっと握る智也。
街頭の照らし出す影が重なると、ふたりはゆっくりとまた歩き始めるのだった。
FIN.