Relationship

桜のつぼみが大きく膨らみ始めたある日、クロエは青峯学院大学の校門前に立っていた。

「ん、ここに来るのも久しぶりね」

大学を一昨年から休学し、現在はパリへ留学。帰国するのは主に年末年始。
それなのに、もう桜の季節も目前というこの時期に帰国したのには、特別な理由があった。
この春、恋人である「塚本志雄」が彼女と同じ青峯学院大学を卒業する。それを祝うために内緒で帰国したのだった。
卒業式を終えた、学生たちが次々と校門を通っていく。そんな人波の中に最愛の人の姿を見つけると、クロエはその背後にそっと近寄って目を覆う。

「だーれだ?」

耳元でいたずらっぽくささやきかける。

「……クロエ?」

難なく答える志雄にクロエは、安心した表情を浮かべた。

「あ・た・り。久しぶりね志雄」
「久しぶり……はいいんだけど、手を退けてくれないかな? こんなに人がいる前だとさすがに恥ずかしい」
「あら、私は恥ずかしくないわよ? それよりも、あまり驚いてないみたいね……どうして?」

志雄の視界を開放したクロエが前に回り込みながら尋ねる。

「うん、そうだな……なんとなく。そう、なんとなく来てくれるんじゃないかって思ってた。これほどの卒業祝いはないよ。ありがとう、クロエ」

照れながらそう語る志雄に、クロエも頬を染めた。

「そ、それならいいわ。志雄が喜んでくれたんだもの、レポート途中で来て正解だったわ」
「途中でって…… そんなことして大丈夫なのか?」
「レポートは戻ってからゆっくり仕上げれば良いことだし。それに日本と比べて休みには寛容だから」
「ならよかった。じゃあ、しばらくはこっちに居られるんだよね?」
「ええ、週末まではね。だから、久しぶりにハンバーグ、作ってあげる。ピーマンなしのを。どう? 最高のプレゼントでしょう?」
「ありがとうクロエ」
「どういたしまして」

何故か自慢げに頷くクロエ。

「じゃあ、今度は俺の番……かな。実は、クロエにプレゼントがあるんだ」

そう言いながら志雄は小さな箱を差し出したきた。

「志雄……?」

クロエは箱を受け取ると、そっとビロードの蓋を開ける。そこには、桜色に輝く指輪がはいっていた。

「……し、志雄!? これって……」
「ああ、御守りというかなんというかさ、この指輪を見るたび、俺を思い出してくれたら嬉しい」

そう恥ずかしそうに呟く志雄が、クロエは愛おしくてたまらなかった。いつか貰えると信じていたが、それがまさか今日になるとは思ってもいなかった。
だが同時に、志雄は海外にいる自分との距離に不安を感じているのでは……と思ってしまう。

「志雄も……パリへ来てくれればいいのに」

だからつい冗談まじりに指輪を見つめながら言葉にしてしまう。

「ごめん、でもそれは……無理だよ」

それはクロエもわかっている。志雄はこの春から、大手の商社に就職が決まっているからだ。
志雄は『会社を経営しているクロエの父親』に対して、『クロエに相応しいきちんとした社会人』という姿を示したい……そんな少々古くさいとも言える考え方に拘っていることを、クロエも理解している。
けれど――

「一人じゃ寂しいだろうけど……まったく、“クロエ先輩”はしょうがねえなあ」
「そのセリフ、突っ込みどころしかないのだけれど? そもそも、寂しいのは“塚本”のくせにぃ……」

ふたりはお互いに昔の呼び名で照れ隠しをし、それ以上この話題には踏み込まなかった。

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千羽谷からシカ電に揺られ、何度も通った澄空駅へ。ここまで来ると、微かに潮の香りがしてくる。帰ってきたんだと改めて感じる。ここから数分も歩けば志雄の住むマンションだ。
あの雨の日、初めて訪ねた時のことを思い出す。自分を受け入れてくれた彼の優しさのおかげで今の自分がある。そうクロエは確信していた。だからここに来るときはいつも感謝がある。家に帰る以上に帰ってきたと感じさせる場所なのだ。
マンションの前まで来ると、真新しいセーラー服に身を包んだ少女――妹のノエルが待っていた。

「卒業おめでとう、おにいちゃん」
「ありがとう、ノエルちゃん。新しい制服、とても似合っているね」
「ありがとう」

そんな会話が志雄とノエルの間で“フランス語”で交わされる。
留学のおかげもあってリスニングには自信がついたクロエだったが、まだ自然にフランス語が出てくるまでには至っていない。いざとなったら英語で話してしまえば割となんとかなってしまうのだから、本人としてもそれほど焦っていなかった。
だが、志雄のこととなれば話は別だった。

「んっ、んんっ……」

わざとらしく咳払いをして、自分に注意を向ける。

「ノエル? 今日は、その……ごめんね? 志雄とふたりで過ごしたいのだけれど……」
「ふふっ、大丈夫だよ。おめでとうを言いに来ただけ」
「それと、制服を見せに来たのでしょう?」
「うんそれも。それにしても、おにいちゃんはフランス語をすごく自然に話せるようになったよね」
「おにいちゃん“は”、が、少しひっかかるのだけれど?」
「そうか? クロエだってもう留学してから随分経つんだし、俺よりも慣れてるでしょ?」
「ヒアリングは完璧と言って差し支えないわ」
「せっかくだから、三人でフランス語で話してみない?」

とからかうように志雄は提案したのだが……。

「ヒアリングは完璧と言って差し支えないわ」

と、同じフレーズを繰り返す。こうなるとクロエは手強い。

「……えーと、じゃあわたしは鈴さんに挨拶して帰るね」

この話題では姉の表情は崩れないと察したノエルは、くるっと踵を返しながら――。

「それじゃおねえちゃん、“ごゆっくり”」
「ノ、ノエル!?」

爆弾を落として去っていった。

「はは……やられたね、ノエルちゃんに」
「も、もう……さ、いくわよ志雄」

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「ただいま……」
「志雄、コーヒーいれる?」
「ああ、頼むよ。インスタントしかないけど」

部屋に入ったクロエは慣れた様子でコーヒーの準備をする。幾度となく行っているごく自然なふるまいだ。

「ノエルちゃん、大丈夫みたいで良かったよ」

着替えながら、志雄がノエルについての感想を述べた。

「どうかしら……あの子、家族の前では“家族の前の顔”ができるから」
「女子高だっけ。環境が変わるから、きっと大丈夫だよ」
「そうね……そうあってくれれば、そして私たちのような、良い出会いに恵まれると良いのだけれど」

テーブルにコーヒーを置きながら、クロエは軽い溜息をもらす。

「そういえばパリはどう? もう2年もいるんだし慣れただろ?」
「慣れた……そうね、慣れたといえば慣れたかしら。でも私の周りの人が私に慣れた……とも言えるかもしれないわね」
「というと?」

着替えた志雄がコーヒーを手に取りつつ続きを促す。

「朝行くパン屋、いつも立ち寄るカフェ……私が何を頼むのか、どんな好みなのかを覚えてくれた。それと、興味を持って声をかけてくれる人も増えたかしら?」
「ちょ、っとクロエ? それは、もしかして……」
「ええ、男性ね。中には会話の流れでさらっと口説こうとする人も……確かにいるわね」

リアルにコーヒーを噴出す志雄。クロエは指輪を愛おしそうに撫でながら、こう続けた。

「でも、これからはこれが守ってくれるわ」

そう微笑み、志雄に身体を寄せる。指を絡め、互いの唇の距離は縮まり――

「……なんだか、嫌な予感がするわ」

クロエは周囲に鋭い視線をめぐらす。

「例えば、鈴さんかりりすか亨あたりが、タイミング悪く尋ねてきたり……?」
「ええ。もしくはその全部。志雄の部屋って、そういう呪いがかかってる気がするもの」
「大丈夫。親父と香里さんが、「今日はゆっくりできるよう、うまいことしといてやる」……って言ってた」

クロエは、ちょっと口を尖らせて言う。

「ご家族に認めていただけているのは嬉しいけれど、なんだかそれはそれで恥ずかしいわ」
「それは、お互い様なんだけど」
「ふふっ」
「ははっ」
「ところで、どうして私が来ることを志雄もおじさまたちも知っていたの?」

ふと気づいた疑問を口にする。

「あ……えーと。だって、これ……」

志雄がスマホの画面を見せる。そこにはお互いが離れていても、今どこにいるかがすぐわかるようにと入れた位置情報共有アプリが表示されていた。
履歴には、パリの空港で一旦消えたクロエが成田で復活。そして千羽谷の駅に現れるまでの道程がはっきりと見て取れた。

「あ、ああ、そう、わかっていたわよ。さ、最初からわかってやっていたんだから」

自分のことになると、つい色々と抜けてしまう……顔を赤くして言い訳するクロエに、かつて“澄空の女帝”と言われたクールな面影はなかった。

「ウソだよね? でも、クロエが恥ずかしそうに言い訳するときの表情は、相変わらずかわいいよ」
「も、もう! 志雄ったら……」

志雄の言葉にさらに顔を赤く染めたにしたクロエは、それ以上何も言わせないとばかりに、志雄の唇を情熱的に塞ぐ。
次の帰国は年末になる。そう思うと志雄を抱きしめる腕に力が入った。そんなクロエに志雄は包むような優しさで抱き返すのだった。

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そして、数日後――
空港のターミナルに、パリへ戻るクロエとそれを見送る志雄の姿があった。

「クロエ、気を付けて」
「ええ、志雄も。着いたら連絡するわね」
「ああ、待ってる」

離れていても、スマホの画面を通じていつでも顔を見ながら話せる。そうであればこそ、この一時にしては長い別れも許容できる。

「別の指輪も用意できるように、俺も頑張るよ」
「私も、もっともっと……志雄に相応しい自分になっておくわ」
「フランス語も、がんばってね」
「ヒアリングは完璧と言って差し支えなっ……ん……」

クロエが最後まで言わせまいと志雄がその唇をふさぐ。ずるい……と思いながらその腕にクロエは体を預けた。

あの日、雨の中で始まった奇跡は、これからも続いていく。
それを糧に、次もまたお互いに成長した姿で会える。
志雄もクロエも、ノエルや皆も新しい花を咲かせる……そんな明るい未来が待っている。
雨は止み、もたらされた想いが、それぞれの成長を促していくのだから。


FIN.