Dreamer

「はぁ……疲れた……」
ほたるは上着を脱ぎながら、ふとつぶやいてしまった。時計を見るともう23時。
「日本は……もう朝かぁ」

ロンドンを拠点として活動を始めてもう2年。あっという間に過ぎていった。
努力の甲斐もあって、今では、“Hotaru Shirakawa”と言えば、注目の若手ピアニスト、東洋の妖精などなど、ほたるからしてみれば身に余るほどの注目を浴びていた。
特にここ数週間は忙しい。ピアノのレッスンの後、マネージャーと今度出すCDとその演奏会の打ち合わせ……。そして気が付いたらこんな時間。毎日こんな感じだった。

「ほたる、もう死にそう……健ちゃーん慰めてぇぇ」

そう言ってほたるはベッドにバターン倒れこんでスマホを開く。そこには微笑む健の写真があった。ほたるがロンドンに旅立つときに撮ったものだ。こっちでの生活、特に最初の半年間、健がいない生活に耐えられそうにないとき、この写真に何度となく助けられた。ほたるにとってはなくてはならない写真だ。

「健ちゃん元気かな? この前会ったのは夏の演奏会が始まる前だったから……7月くらい?」

これまでも直接会えない期間がこのくらいになることはあった。だが、今回はなぜだか胸が苦しい。

「健ちゃん成分が足りていないのかなぁ」

謎の成分を口にしてみても、既に写真からだけではそれは補給できないほどに枯渇しているようだった。

「まぁ悩んでもしょうがないか。今電話しても健ちゃんもう仕事に出てるだろうし……」

ほたるは自分を納得させるように画面を消そうとすると、突然スマホが震え、着信を示す表示にかわる。
ふぅ、と一息入れて気持ちを入れ替え着信に応じる。

「もしもーしお姉ちゃん?」

相手はほたるの姉、白河静流からだ。

「あ、ほたる? 良かったまだ寝てなくって」
「うん。今さっき帰ってきたところで着替えてもないもん」
「相変わらず忙しそうね」
「だって、CDと演奏会が控えてるんだもん。今が頑張り時だし。それでお姉ちゃん何の用事だったの?」
「あ、そうそう。ほたる、あなたこの年末年始は実家帰れるのかしら?」

ざっと、ほたるは頭の中でスケジュールを確認する。

「年末年始は難しいかも。カウントダウンの演奏会、ニューイヤーコンサートにも呼ばれてるし……帰れても年明けてからしばらくしてから……でもレッスンもあるから……」
「そうなの? そうね……少しでも帰ってこれない? あなたも健くんに会いたいでしょ?」
「それは……」

そう。この年明けにでも帰れないと健に半年以上会えないことになってしまう。SNSも発達してビデオ通話で顔を合わせて話すことも難しくない。それでも直接会うのとは全く違う。しかもこのところ、健からはなかなか連絡をくれず、ほたるの方からもなんだか遠慮してしまって、このところちょっとご無沙汰気味なのだ。

「ねぇお姉ちゃん? 健ちゃん、最近どうかな?」
「健くん? 去年転職したサッカーチームの広報で頑張ってるみたいよ」

高校のころやっていたサッカーに関わっていたいと、健は就職した市役所を辞め、地元のプロサッカーチームの広報として働き始めていた。忙しいがやりがいのある仕事だと健は言っていたし、ほたるにしてみても、忙しくても健が仕事にやりがいを見出してくれているのはうれしかった。
だが、今ほたるが聞きたかったことは健の仕事の話ではない。

「えーと、違くて……、健ちゃん、ほたるのこと何か言って……なかったかなぁって」

姉になら聞ける。そんな甘え。

「ほたる、それはあなた自身で聞かなくちゃだめよ」

しかし甘えた要望を、静流はきっぱりと拒絶する。

「う、うん、それはそうなんだけど、最近あんまり連絡くれなくって、ほたる……健ちゃんがもう待ってくれないんじゃないかって不安で……そう思うと自分から連絡するのも怖くなっちゃって」
「はぁ、ほんとにあなたたちは、二人そろって不器用ね」

電話の向こうで、盛大に呆れる静流の表情が想像できた。

「だってぇ……」
「いい? 健くんを信じてあげなさい。確かにあの人は優しいから、いろんな人にいい顔をして、その結果トラブルになることも多いけど」

確かにとほたるは頷く。だいたい女性に優しくして惚れられて、ほたるとケンカになるのだ。

「でもね、健くんが一番想っているのは、ほたるなの。だから……信じてあげて。連絡してあげて」

そうケンカになっても、健の真剣なまなざしにほたるをいつも信じてやってきた。今回はしばらく会っていないせいもあってきっとナーバスになりすぎたんだろう。

「うん……お姉ちゃんありがとう。連絡してみる」
「そうね、それがいいわね」
「……ところでお姉ちゃん?」

落ち着きを取り戻したほたるは、いつもの口調で姉に問いかける。

「彼氏とかまだできないの? 小夜美さんと一緒に、プロレスとかの試合とかばっかり観に行ってちゃだめだよ?」
「くっ……ほ、ほたる? あのね私はね、そんなプロレスばっかり観てるわけじゃなくって、ちゃんとお菓子作り教室の講師もやってるし、ほたるが思ってるほどモテないわけじゃ……それにまだ周りのみんなだって結婚してる人はそんなに……そう、そんなにはいないのよ。だから大丈夫。まだまだ全然大丈夫なんだから」

後半、何か念じるように呟き始めた姉に“あ、まずいツボをついてしまった”とほたるは悟る。

「あ、それじゃあもう遅いから切るねー、お姉ちゃんもお仕事遅れないようにねー」
「ちょっとほた……」

静流の言葉はほたるに届くことなく、電波の狭間に吸い込まれて行ってしまった。

「はぁ、やっぱり気にしすぎなんだろうな……」

スマホの画面をさっと操作する。そこには“伊波健”の名前。
通話マークにタッチするだけで、健につながる。こんな遠くにいても一瞬で。
マークに指が伸びる……と再びスマホが振動する。
画面に表示されたのは“伊波健”。

「健ちゃん! ほんとにほんとに健ちゃん!?」
「そうだよ。ほたるしばらく連絡できなくてごめんね」

優しい声。間違いなく健だ。ほたるが連絡を待ちわびた相手だった

「ううん、いいの。謝らなくちゃいけないのはきっとほたるの方だよ」
「なんでほたるが?」
「だって、私から連絡すればよかったの。忙しいからって電話もしない、メールもしない……ただただ健ちゃんの連絡を待ってただけだったんだもん」
「そっか……じゃあこれはおあいこだね。だって僕もそうだったから」
「おあいこ? 似た者……同士?」

さっき静流がそんなことを言っていた。

「え? 何? ほたる」
「うん、あのね、さっきお姉ちゃんと話したんだけど、私と健ちゃんは“似た者同士”なんだって。健ちゃんがおあいこって言ったからちょっと思い出して」
「似た者同士か。ふーん……なるほど。静流さんもうまいこと言うね」
「え?」
「じゃあ、そんな似た者同士のほたるにクイズです」
「クイズ?」
「僕はなぜ今日ほたるに連絡をしたのでしょうか?」
「そ、それは……もしかして……お休みをとれた? とか?」
「ピンポー!」
「ん? ンは? 正解ならピンポーンだよね?」
「うん。だから半分正解」
「半分……って」
「そう、もう半分は、今日ほたるのところに泊めてもらおうと思って。ねえ、そろそろドア開けてもらえないかな? となりのおじさんが不審そうな顔でずっと僕のこと見てるんだけど」

え……………………………………………………………?
思考がフリーズする。何故健がここに?

「あの、ほたる? 聞いてる? ドアまだ空かない? そろそろ開けてくれないとポリスを呼ぶとか言われてるんだけど……」

ほたるは大急ぎで部屋のドアを開け……そこに居たのは。

「健……ちゃん?! どうして?日本じゃなかったの、何でここに? ううん、え、ちょっと……でも、ほんとに? 健ちゃん?」

ここはロンドン。健は日本に……キツネにつままれたような表情で、ほたるの思考がぐるぐるぐるぐる回る。でも理屈なんてどうでもよかった。健がここにいる……。さっきまで思いもよらなかったことが今、ここで起きてる。

「久しぶり。ほたる。ごめんね急に来ちゃって」
「ううん、いいの、いいんだけど……でも、なんで? 健ちゃん何でここにいるの? ロンドンだよイギリスだよ? 倫敦橋だよ? 日本じゃないよ?」
「ほたる、落ち着いて。まずは部屋に入れてよ」

なんとなく状況を察したのだろう、健のことを不審な表情で見ていたおじさんは「頑張れよ」というサインを残して去っていった。
混乱するほたるをなだめつつ、二人も部屋に入る。

「健ちゃん健ちゃん健ちゃぁぁぁん」

部屋に入った途端、ほたるは健に抱き着いた。3ヶ月ぶりのぬくもり。

「本当に健ちゃんなんだよね? 足ついてるよね?」
「何言ってんだよほたる。ほらちゃんと足あるだろ? 正真正銘“伊波健”だよ」

そういって優しく微笑む健。その微笑だけで疲れがすべて飛んでいくようだった。

「こっちのクラブチームの視察に来たんだけどさ、上司がこっちに彼女が……ほたるがいるって知ってて、会ってこいって。滞在期間も僕だけ伸ばしてくれた」

なんて良い上司さんなんだろう。ほたるは心の中の良いひとランキングにまだ見ぬ健の上司をランクインさせていた。

「それで、健ちゃんいつまで入れるの? あ、でも私レッスンもあるし昼間は一緒に居られないんだけど」
「あと3日居られる。今度の日曜までだね……」

そこで言葉を切る。

「それでさ、ほたる……その、一緒に行ってほしいところがあるんだ」
「どこ? ロンドン市内だったら案内できるよ?」
「一緒に教会に行こう」
「あ、うん教会だね。ってことはえーっと…………きょ、きょ教会!? そ、そ、それっ、プププ……」

その意味するところは、ほたるにもはっきり分かった。分かったからこそ、あまりにも突然でうまく言葉が出てこない。

「待たせてごめんね。僕はもうほたるを待ってるだけなのは耐えられないんだ。一緒に住むのはまだ先になってしまうかもしれない。ほたるだって、ようやくピアニストとして軌道に乗り始めたところだし。でも……証が欲しいんだ。ほたると僕がずっと一緒にいるっていう証が」

突然の健の訪問、そしてプロポーズ。自体が一気に展開しすぎてナーバスな気持ちはどこかへと消え去ってしまった。

「僕のわがままかもしれない……、でもほたる、一緒に来てくれるかい?」

ほたるの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。ずっと待っていた言葉。それが思いもよらず今夜……叶うなんて。

「うん、一緒に……教会いこ。だってほたるは健ちゃんに永遠の愛を誓おうってずっとずっと、ずーーーっと前から思っていたんだもん」

そこにあったのは26歳のほたるではない。健と再び結ばれたあの夏の終わり。あの日のほたるの笑顔だった。
ほたるの心の奥から幸せがあふれてくる。こんな気持ちで演奏したらきっとすっごく気持ちいんだろう。どんな難しい曲も弾けそうだった。
どこかで誰かが言っていた。想い続けていれば、願いはいつか叶うんだって。
それが今日だった。二人だけの小さな、でも何よりも幸せな誓いの儀式。

ふと、一人の友人の顔が浮かぶ。

「あ、健ちゃん、このことはまだ信くんとかには内緒ね。今度帰った時に驚かせちゃうんだから」
「え、じゃあこれはしばらくは僕とほたるだけの内緒ってこと?」
「うん! しばらくはほたるだけの宝物として堪能するの!」

彼に“雨が上がったな”なんてセリフは言わせない。
だってほたると健の雨はずっと前に、すでに上がってたのだから。


FIN.