ユア・メモリーズオフ
〜Girl's Style〜Mobile版
戻る電車が来るまで少し時間があった。
「……じつは、おにぎりがあるの」
海は持ってきたバッグから包みを出した。
「ほんとに? 食べようよ」
清孝の目が輝いた。
駅のベンチにふたりで並ぶ。
相変わらず、あたりに人は誰もいない。
「うまい。海ちゃん、さすがだなあ」
「えへへ。よかった、作ってきて」
「前にも、みんなに差し入れしてくれたよね。バンドの練習で」
「うん」
「きっとあのころから好きだったんだ」
「え」
さらっと言われて動揺した。
「で、でもあの、手作りはここの雰囲気にあわないかなって」
動揺してずれた話をしてしまった。
「そんなことない」
ずれているのに清孝は普通に話を続ける。
「むしろ手作り以外はいやだ」
「キヨさん……」
「いまここで僕が食べたいのは、海の作ったものだけだ」
きっぱり言われた。
なぜそうなのかわからないけれど嬉しかった。
電車が来て、ふたりはもとの場所へ引き返した。
行きも帰りも乗客はふたりだけだった。
「……あ。雨」
ホームを出ると、アスファルトに雫がぽつぽつ落ちてきた。
「車に戻ろう」
手をつなぎ、早足で移動する。
「大丈夫? 濡れた?」
「平気。少しだから」
車に乗って、積んであるタオルで雫を払う。
一休みしたあと、工場地帯のなかをゆっくりドライブした。
ワイパーが揺れる。
フロントガラスの向こうに霞む鉄パイプの城。
濡れて光る金属、つなぎ目の細い黒い錆。
ときどき見える「安全確認」の赤いプレート。
「キヨさんて、私のこと、海ちゃんて言ったり海って呼んだりするね」
ぽつぽつ話した。
「どうして違うの?」
「そうだなあ……海ちゃんて呼ぶのは、かわいいと思うとき」
「わ。……じゃ、海って呼ぶのは?」
「触れたいとき」
「……」
ハンドルからすっと片手が離れて海の手に重なる。
だめだよ、安全運転しなきゃと海が言う前に離れてしまう。
顔はずっと正面を見たままだ。
やっぱり、天然なのか狙いなのかわからない。
でも、わからなくていい。
「雨、やんだみたいだね」
空は黄色、ところどころオレンジ色に変わっていた。
いつのまにか夕暮れの時間らしい。
もう一度、ふたりは車を降りて歩いた。
雨あがりの空気に、金属のにおいが混じっている。
工場は夜が近づいても変わらず動いている。
「見て。海」
「え——あ……うわあ……」
海は言葉をうしなった。
工場の島、鉄パイプの森が輝いている。
ライトアップされたような鉄骨の群れ。
強い光。
等間隔の光、赤い光、白い光、黄色みのある光。
黒い影のように立つ煙突から、揺れる炎が吐かれている。
「きれいだね」
「……うん」
海はなんだか泣きそうになった。
こんな夜景を見たことがなかった。
怖いくらいきらめく、きれいすぎる。
イルミネーションより遊園地より、鋭く海の胸に迫ってくる。
「僕がこの場所を好きなわけはね」
清孝が、すっと海を抱き寄せて囁いた。
「ここには、必要なものしかないからだ」
——こんなにきれいなこの夜景も、決して、見る人を楽しませるためのものじゃない。
工場を動かすのに必要な明かりが集まっているだけ。
複雑なパイプも、小さな計器も、全部、必要だからその形なんだ。
余計な飾りはいっさいない。だから少し怖いけど美しい。
「前に読んだ本にも、そんな文章があった」
「そっか……」
少し怖い心を預けるように、海は清孝の胸にもたれた。
清孝は優しく髪を撫でてくれる。
「だから、海とここへ来たかったんだ」
「だから?」
「そう」
——この場所には、必要なものだけがある。
だから、ここで食べるのは海の作ったものだけ。
僕にとって必要なものだから。
海を抱く清孝の腕に少し力がこもる。
「僕のそばにいるのは、必要な人だけ」
「……」
海はもう何も言えなくなって、ただ清孝に寄り添っていた。
ごうっと空で風のような音がした。
見あげると、光を翼に載せた飛行機が、大きくふたりの上を飛んでいた。
初出 電撃Girl's Style2008年7/25号